壺屋焼の特徴と技法
壺屋焼の特徴は、その素朴さと力強さにあります。
どっしりとした重量感のある器は、暖かみと風格が見る者、使う者に、白然に伝わってきます。
この力強 さや暖かみは、長い伝統に培われた技法と、土と火に よって産みだされるものです。
上焼と荒焼
壺屋焼は、上焼と荒焼に大別されます。
上焼は、粕薬をかけ約1200度の高温で焼かれたものです。
碗、皿、鉢、カラカラ、壺などの日常生活用品が多く、壺屋焼の 主流を占めています。
荒焼は、南蛮焼ともいわれ釉薬をかけないで1000度前後で焼きあげます。
製品は酒甕、水甕類などの大型の容器を中心に作られています。
陶 土
釉薬
壺屋焼に使われている釉薬は、白粕、黒粕、青磁、飴粕、呉須 などいずれも壺屋独特のもので、暖かみのある色あいを見せ てくれます。
中でも白粕は、消石灰とモミ灰を混ぜ、更に具志 頭白土と喜瀬粘土を混ぜたもので、壺屋ならではの釉薬です。
成型
施釉・加飾
施釉の方法には、浸し掛、流し掛、振り掛、布掛などがあり ます。
又、加飾の方法には、刷毛目、象がん、印花、掻き落、線彫、 飛ばしガンナ、赤絵、盛り付、張り付などがあります。
これら の技法はどれをとっても深い味わいを壺屋焼に与えています。
壺屋焼の歴史
焼物の町 壺屋
壺屋は、今から300年も前に誕生し、今日に至るまで数々の素晴らしい伝統工芸品を産みだしてきました。
この焼物の町、壺屋ができるまでに、琉球における焼物は多くの変遷を経てきたのです。
壺屋ができるまで
琉球における焼物の歴史は考古学的年代の土器を除くと城跡から出土する高麗瓦などに始まるといわれて います。
琉球王朝が、海外貿易を盛んにしていた14~16世紀頃に中国や南方諸国の陶磁器が 豊富に持ち込まれました。
南蛮焼の技術が伝えられたのもこのころのことだといわれています。
17世紀の初期、薩摩の治政下におかれ海外貿易が下火になると、王府は薩摩から朝鮮入の陶工を招いて、朝鮮式陶法の習得に力を入れはじめました。
この時から上焼が焼かれるようになり、今日の壺屋焼の主流を占める、伝 統技術の火がともされたのです。
そして、1682年、王府の手によって美里村、知花窯、首里宝口窯、那覇湧田窯が牧志村の南に 統合され、現在の壺屋が誕 生しました。
陶器造りに積極的な 琉球王府
壺屋誕生後も、王府は御拝領地や御拝領窯を与えたり、功績を残した陶工を士族に列するなど、焼物づくりの発展に大変積極的でした。
こうした王府のバックアッ プは、こののち壺屋焼が、伝 統的技法を産み出し、世界に誇り得る焼物に成長する足がかりになった、と言っ ても過言ではないでしょう。
全国に知られる壺屋焼
地理的条件や他国の支配下にあるという閉鎖的条件のため、これまで広く知られる機会に恵まれませんでした。
ところが大正のころになっ て、浜田庄司氏、河井寛次郎氏、つづいて柳宗悦氏らが本土に紹介したことから、その力強さと優れた伝統技術が、 日本の多くの人々に認められ、 称賛をあびる今日では人間国宝金城次郎を生みだしました。
壺屋焼の歴史
琉球における焼物の歴史は、考古学的年代の土器を除くと、城跡から出土する高麗瓦等から始まる。
琉球王朝が、海外貿易を盛んにしていた14~16世紀頃に中国や南方諸国の陶磁器が豊富に持ち込まれ南蛮焼の技術が伝えられたのもその頃だといわれている。
しかし1609年に薩摩の島津藩が琉球に侵略、薩摩の治政下におかれ海外貿易が下火になると、琉球王朝の尚貞王は産業振興の目的で薩摩から朝鮮人の陶工(一六、一官、三官)を招いて、湧田窯にて朝鮮式陶法の習得に力を入れ始めた。
この時から上焼が焼かれるようになり、今日の壺屋焼の主流を占める、伝統技術の火が灯されたのである。
そして1682年に王府の手によって美里村知花窯(現・沖縄市)、首里宝口窯、那覇湧田窯が牧志村の南に統合され、現在の「壺屋焼」が誕生したのである。
王朝時代は技に磨きをかけた作品を王に献上、その功績によっては新家譜を賜り、士族へとり立てられるなど高い評価を得、多くの名工を輩出した。
その後明治維新という大きな政治改革の波を受け琉球王朝は幕を閉じ王府の庇護から自由競争に入る。日露戦争による一時的好景気にはなったものの、本土特に有田焼から安価で軽い焼物として大量に流入し一般庶民に浸透され壺屋焼は最大の危機に立たされることとなった。
だが民芸研究家や陶芸家の第一人者である柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司等が来沖し壺屋焼の陶工に技術を研磨させ沖縄工芸の素晴らしさを東京や京阪神に発信したことにより壺屋焼は廃絶を免れ壺屋焼の陶工達は自信と誇りを取り戻し、戦後に望みを繋げた。
沖縄は、第二次世界大戦において地上戦の舞台となり大きな痛手を受けたが、幸い壺屋地区は比較的軽微な被害で澄み壺屋の復興はいち早く行われ徐々に壺屋焼の勢いを取り戻す。
しかし同時に住宅密集地になったため今度は薪窯による煙害が深刻な問題となり那覇市は公害対策のため薪窯の使用禁止をすることにした。
壺屋に残る陶工は薪窯からガス・灯油窯に転換、薪窯にこだわる陶工は当時基地返還による広大な土地転用を模索していた読谷村に移窯することになった。
読谷村は元々読谷山花織等、伝統工芸には根付いた地でありまた周辺には良質な土が豊富にあったため陶工には最適の場所となって壺屋とは違う「やちむんの里」が出来るほどになっていった。
日では壺屋や読谷村以外にも沖縄本島離島全域に分散する運びとなっている。
壺屋焼を中心とした琉球・沖縄年表
年度 | 陶 器 ・ 壺 屋 焼 |
---|---|
1616年 | 朝鮮陶工、一六、一官、三官が薩摩より来流。湧田にて指導する |
1667年 | 宿藍田、上焼を釉薬を工夫し茶壷・茶碗を製作 |
1670年 | 平田典通、中国より上焼と五色玉の技法を習得 |
1673年 | 花城親雲上、知花にて築窯。天水甕を製作 |
1682年 | 知花、湧田、宝口の三窯場を牧志邑の南(現在の壺屋)に統合する、壺屋焼の始まり |
1708年 | 和久田(湧田)村の渡口二也、前任龍福寺の法林和尚の獅子型の骨壷を作る |
1719年 | 冊封副使・徐葆光、来琉し、「中山伝言録」に城獄から壺家山を見て、国中の陶器を出産する所と記述する |
1724年 | 泉崎村の仲村渠致元、八重山島に渡り「壺屋焼並上焼物の方」を伝授 |
1731年 | 仲村渠致元と賀数、薩摩の苗代川と立野窯より焼物の技法を伝授。帰国後、湧田において磁器を焼く |
1736年 | 仲村渠致元が薩摩の献上品烟盆の火取・灰吹を製作 |
1743年 | 仲村渠致元、壺屋村に築窯す |
1800年 | 冊封副使・李県元、来琉し、「使琉球記」の中で壺屋山を視察したことを記述している |
1847年 | ベッテルハイム、壺屋の仲村渠築登之の屋敷に赴き、窯などを見学 |
1853年 | ペリー来琉 |
1854年 | 琉米修好通商条約締結 |
1879年 | 琉球は廃藩置県から沖縄県になる |
1880年 | 清が先島諸島の割譲を申し入れ、合意はするが調印せず |
1894年 | 日清戦争勃発、日本の勝利により琉球は日本の主権となる |
1904年 | 日露戦争勃発、兵隊用のお酒が泡盛を使用されることがあったため入れ物として壺屋焼の甕が使われた |
1910年 | 農商務省工業試験所帳技師北村彌一郎、壺屋を視察。陶土の試験を行う。翌年1911年9月15日沖縄毎日新聞上に結果を発表 |
1917年 | 壺屋陶器販売購買生産組合設立 |
1918年 | 浜田庄司・河井寛次郎来県、壺屋を視察 |
1921年 | 鎌倉芳太郎、沖縄女子師範・県立第一高等学校の図画の教師として赴任 |
1924年 | 鎌倉芳太郎、琉球芸術調査事業の補助を受ける。伊藤忠太来県 |
1927年 | 沖縄県工業指導所を県庁内に設置 |
1938年 | 柳宗説来県 |
1939年 | 4月 浜田庄司、河井寛次郎、田中俊雄ら来県。「工芸」99号に壺屋を紹介 12月 沖縄民藝調査団(柳宗悦団長)来県、翌年1月まで滞在 |
1940年 | 日本民芸協会主催「琉球観光団」来県 |
1941年 | 太平洋戦争勃発 |
1942年 | 柳宗説の編集による「琉球の陶器」発行 |
1944年 | 十十空襲(那覇市大空襲90%壊滅) |
1945年 | 3月29日、米軍、慶良間諸島を占領 4月01日、米軍沖縄本島上陸 6月23日、第32軍司令官牛島満自決、実質的沖縄戦終了 10月23日、壺屋の焼物、兼城の筵に就て優先的に移動を申請近日中に先遺隊の派遣が許可される 10月24日、焼物、バケツ、カナダライが配給となる 10月31日、那覇地区の先遺隊は焼物及び瓦製造の場所のみとする 11月07日、軍政府は輸送手段を計画。牧志地区はまだ許可を得ず 11月10日、城間康昌を団長とした先遺隊陶器及び瓦工業復興のため、壺屋に入る 11月15日、大城鎌吉を団長とした先遺隊陶器及び瓦工業復興のため、壺屋に入る |
1946年 | (資)壺屋陶器工場、沖縄陶器(株)設立 01月、壺屋は糸満地区になるが、4月に那覇市に昇格 |
1948年 | 那覇市主催工藝復興展覧会開催。(新垣栄世、3等賞をもらう) |
1950年 | (資)壺屋陶器工場解散 |
1951年 | 小橋川源慶、小橋川清秀、新垣栄世、高江洲友丈、高江洲康謹らの五人組結成するが1年で解散 群馬政府主催の産業復興共振会開催。(小橋川永仁、2等賞をもらう) |
1954年 | 金城次郎、新垣栄三郎「第一回陶芸二人展」 沖展に工芸部門(陶器・漆器・織物・紅型)設置 |
1958年 | 金城次郎、新垣栄三郎・小橋川永昌「第一回陶芸三人展」 |
1964年 | 「壺屋窯の会」結成(3月)。壺屋南蛮復興会結成 「壺屋窯の会」第一回作陶展開催(8月) |
1969年 | ヤチムン研究会(現在のヤチムン会)結成 |
1970年 | このころから壺屋にガス窯が導入される |
1972年 | 金城次郎が県の無形文化財保持者に認定される |
1973年 | 南ヌ窯が県の文化財に指定される |
1974年 | 東ヌ窯、5月で窯の操業をやめる。登り窯に代わり、ガス窯が使われるようになる |
1975年 | 壺屋陶器事業協同組合設立 |
1976年 | 壺屋焼が通産大臣より伝統的工芸品産業に指定される |
1977年 | 壺屋陶器会館ができる |
1979年 | 第1回壺屋陶器まつり開催、その後毎年開催 |
1980年 | このころ、仁王窯の登り窯取り壊す |
1982年 | 恩納村の谷茶に製土工場ができる |
1985年 | 金城次郎が国の重要無形文化財保持者「人間国宝」に認定される |
1998年 | 壺屋に那覇市立壺屋焼物博物館ができる |
2000年 | 壺屋やちむん通りに第11回那覇市都市景観賞受賞 |
2002年 | 壺屋の新垣家住宅(主家、作業場、離れ、宅地、東ヌ窯(アガリヌカマ))が、国の指定文化財(建造物)に認定される |
2003年 | 沖縄都市モノレールが開通、各駅に壺屋焼シーサーを設置 |
2011年 | 那覇市さいおんスクエアに壺屋焼巨大シーサーの設置 |
沖縄の珍しい陶器
シーサー
沖縄では獅子のことをシーサーと呼称し、古くから屋根などに置き魔除けとして置かれていた。艮(東北)に向ければ暴風の災難を除き午(南)に向ければ火難の火伏せとなるといわれている。
大方の瓦屋根は最近無くコンクリート健の屋根や門柱の上に置かれている。あと装飾品として玄関の置物として愛用されている。その置き方は開口が勇ましいことから「雄」、閉口が「雌」とされている。
シーサーの根源をたどり着くと古代オリエント時代にさかのぼる。古代オリエントではライオンの造形が数多く作り出されておりそれらのライオンの造形がユーラシア大陸の永い時をたどり様々な民族間を、シルクロードと大きな歴史の流れの中で次々に姿や形を変えながら中国福建省から琉球にだどり着いたといわれている。ちなみに朝鮮半島から日本に着いたのが神社とかにある「狛犬」といわれている。